語るには情報が必要だが
戦争の状態が日々変化している。
日本で生活している際の目の前の現実は変わらずそこにあるのに、目に見える影響といえば日々値上げされる生活インフラのニュースくらいで、実感が湧かない。
モヤモヤしている思考を整理するには考えるだけでなく語る必要があると思う。
そしてこのブログで語るにも誰かと情報交換をするにも、何をおいてもまず知る必要がある。
幸い情報は溢れるほどある。
この戦争においては従来とは大きく異なる性質を持っていると思う。
リアルタイム制と世界中からの注目、国際的な関与の深さが従来と異なると言える。
しかしそのあまりの情報量の多さ、展開の目まぐるしさ、そしてセンセーショナルな映像の数々に
頭の理解が追いつかない
心の整理もできない
それが今の多くの人が直面している状態ではないかと感じる。
ちょっとここで冷静さを取り戻す必要がある。
特にセンセーショナルな映像は心の奥底に残りやすく、感情を揺さぶってくる。
例えば9.11の時、あれはまだ小学生の頃だった。
朝起きてテレビを観ると、2棟の巨大高層ビルが立て続けに爆発して建物が焼け崩れ落ちる映像が繰り返され、しばらくは昼夜を問わずTVをジャックした。
あの何度も観た凄惨な映像は未だに心に残り続けている。
そして3.11の時、私は海外にいた。
それこそ現地の被災者はインフラが遮断されていて知ることができないような映像ばかりが流れた。
調べても調べても、入ってくる情報は酷い有様のものばかりで現状が計り知れず、不安ばかりが募った。
しかしいざ自宅に戻ってみたら戸建にヒビこそ入っていたものの、自室はモノ一つ落ちていなかった。
あの瞬間の恐怖体験の実態は、あの場にいたものでしか共有し得ないものとなっていた。
もちろん今回の戦争が、映像ほど酷くないというつもりは毛頭ない。
むしろ逆だと思っている。
しかし映像はやはり一部を切り取った情報に過ぎず、全てを語り切ることはないのだということを忘れずにいたい。
とかく映像というものは自分が想像しているよりも心に残るものであると認識したうえで、敢えて切り離す決断も必要だ。
メディアの情報は実態との乖離が必ずある。
日々飛んでくるそのような速報に振り回されすぎてもいいことはない。
だけど無関心でいることはまた違う。
何かできないかと考えることも大事だし
時に考えないこともより大事。
みんながみんな我を忘れたら世界の混沌さが増してしまうから、離れて冷静に見る必要もある。
最近、半藤一利氏の「昭和史」を読んでいるが
わずか100年程前、当時の日本人が当時の満州にしたこと
ー 先住民の土地を強制的に奪い、石油を得て、日本本土の防衛のために満州を防衛線として使い、あらゆる諸権利を奪った ー
それは今のロシアと大差ないことだと思った。(もちろん現代ほどの武力はなかっただろうけど、人の権利を奪ってまで防衛するという志向は同じだ)
私たちの曾祖父の世代の人達が、何故そんなことをしたかというと、ひとえに日本を守るために、それも命懸けでやったことで、そのお陰で私達はどこの国の植民地にもならずにこうして過ごしている。
ロシアがやっている武力行使自体は確実に悪いことではあるが、そこにある歴史的な背景を踏まえて見る必要があるだろう。
まだ終わっていないことを俯瞰してみることは難しいが、
どうやったって時間が必要なことには変わりない。
メディアやSNSの映像といった即席の情報ばかりを得ていると、知らぬうちに感情寄りの思考になる。
そのうちにメンタルがやられればなお思考に偏りが生じる。
メンタルがやられて立ちすくみ動けなくなれば思考停止状態であるともいえる。
壮大すぎる事態であることは間違いなく、それ故に焦ることも投げやりになることもせず
じっくりと自分のペースで考えていけるような情報の質と量を摂取することを心がけたい。
深森