「Replikaではない、代替不能な自分」
https://wired.jp/series/away-from-animals-and-machines/chapter4-3/
https://wired.jp/series/away-from-animals-and-machines/chapter7-3/
「Replika」という対話を通じて自分そっくりの人格を育てるチャットボットをご存知だろうか。
亡くなった友人を愛し続けるためにロシア人の起業家が作成した。
SFのような話が現実味を帯びてくる。記事にもあるようにこのアプリの発達はデジタル上にもう一人の自分を作り出せることを意味している。
この記事はいくつかの深淵なテーマを示唆している。
その1つは、デジタルな人格を、その人のあるいは自分の人格とみなすかどうかだ。
まず、デジタルな人格には身体性が伴わない。
機械学習でそれっぽく見せかけることはできるかもしれないが、集めた情報は他人の情報がすべてだ。自身の体を通して五感で感じて得た情報や体験から作られた言葉はデジタルである以上発することができない。
次に、デジタルな人格は、一回性を伴うだろうか?という疑問。
デジタルがデジタルたる所以は「複数性」にある。場所(空間)と時間を問わず、どこでもいつでも再現可能なところにある。イメージしやすいのは、デジタル音声か、ライヴかだろう。ライヴの醍醐味はまさに「一回性」と「身体性」。
空間と時間を共有して、取り返しのつかない今しかない一瞬の体験を共有することにある。
僕はこのReplikaを否定しない。この技術の発達が僕らをどう変えていくかとても興味がある。
ただ、先に述べた理由からReplikaの人格を血肉の通った誰かの人格とは見なせないと思う。
機械に五感を持たせる基礎研究も進んでいると耳にしているが、五感(身体性)を持たせたとしても愛したその人の身体ではないから、同一視はできない。
と同時に思うのが、2つ。
身体性を伴わない言葉、自分の考えがない言葉しか話せないならそれは「Replika」な人格と変わらない。
誰かとの会話の一回性を大事にできないなら、会話相手は「Replika」の人格でもいいだろう。
ライヴの下りでも書いたが、大事なのでもう一度。
ライヴ、live、生きることの醍醐味は空間と時間を共有して、取り返しのつかない今しかない一瞬の体験を共有することにある。
その体験を言葉にして、経験として蓄えて、他人の考えや知識と交わって、自分オリジナルの考えと言葉を蓄積して、オリジナルな人格が作られる。
Replikaでは代替不能な「自分」を作り上げることに、自分を生きている充実感がある。
流清