澄んだ空気
本来守りたい自分の状態を守れてないと思う時は、大抵心も乱れている気がする。
時間を共有する相手を思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。それが子どもであればなおさらだ。
要領がわるい自分のせいだとか、自己管理がだめだとか、良くないところを探せばキリがなくて、それは自己嫌悪やネガティヴしか招かないこともわかっている。
わかっているから、絶え間ない戦いが見える。そして、そのままにもできない。そのループは断ち切らないといけないが、その問題解決をどうするかを考えるために自分の内側をのぞいていくと、中心部へたどり着く。
中心部でうろうろしていると、自分との戦いなのだと気がつく。そして、戦いではないのだとも気がつく。その孤独な戦いはどうにもこうにも終わらない。
考えることが中心部であればあるほど、誰かに頼るものかどうかのボーダーが曖昧であり、結局、自分の元へもどってくる。
そのループを上段へ持ち上げて下段を包括的に解決方向へ行かないと、さらに心は乱れて言動にあらわれる。仕方ないとか、日々が忙しいとか、主観的、閉鎖的な常識とか、閉じた混沌とした歪みを無意識に周りの人間に撒き散らせば、それは悪影響に変異して拡がっていく。
つまるところ、内的な発端の要因なのか、外的な発端の要因なのか、それをまず冷静に明確に把握するべきなんだろう。
そして、いま文にしながら気づいたことがある。いまかかえている自分の中の歪みや苦しさは、高原のベンチに座り、海と空と雲と山々を眺めながら、澄んだ空気を吸うだけで、一時的に解決する。
茶昊